1956年、群馬県沼田市に、牧師家庭の長男として生まれる。四歳になる年に、福島県郡山市に引っ越し、高校を卒業するまでをここで過ごす。大学の四年間は、仙台で、応用化学(工学部)を学ぶ。卒業後、静岡県富士市にある製紙会社に二年勤務。そこで、牧師となる志を与えられ、東北聖書学塾に三年学ぶ。その後、福島市で、28年間、福島聖書教会の牧師として開拓伝道に携わる。その間、牧師として働く傍ら、福島刑務所教誨師(21年間)、保護司(6年間)としても活動した。2012年、母教会郡山キリスト福音教会の牧師として赴任し、現在に至る。東日本大震災後、福島県キリスト教連絡会が立ち上がり、その発足時の代表を務めた。また、福島県キリスト教保養プロジェクト(通称:ふくしまHOPEプロジェクト)の代表として、震災後の子どもたちの支援活動にも関わった。

どうして信仰を?

 私は、1956年群馬県沼田市で牧師家庭の長男として生まれました。4歳になる頃、福島県郡山市に引越し、高校三年生までを郡山市で過ごしました。下には、二つ下に弟(群馬県在住)、五つ下に妹がいました(54歳の時、急性骨髄脊白血病で天に召されました)。
 牧師の家庭ですから、幼い頃から、当然のことのように、祈り、聖書の話を聞くという、キリスト教の環境の中で育てられました。ですから、なぜ信仰を持ったのかと問われても、悩み苦しんで探求したわけでもありませんし、様々な宗教遍歴を経てキリスト教にたどり着いた訳でもありませんから、どのように答えたらよいのか、返答に窮してしまうこともあります。けれども、確かに、私が、キリスト信仰を自分のものとして受け入れた一つの出来事がありました。
 小学校五年の時でした。その日も、いつものように、二つ下の弟と、些細なことで喧嘩をしました。どういうわけか、その日の喧嘩は、いつもより激しかったようで、なかなか終わらず、業を煮やした母から、酷く叱られ、私たち二人は玄関の外に締め出しを食ってしまいました。鍵を閉められ、外灯も消された暗い玄関の戸の外で、なお、しばらく、私は、弟と争っていました。「弟が悪いのだ。自分には正当な理由がある。」と確信していたからです。しばらくして、玄関が開き、母が、私たちを中へ入れてくれました。弟と私は、母に、「ごめんなさい」と謝りましたが、その日はそれでは赦してもらえず、「聖書を持ってきなさい!」という母の一声で、私たち二人は、買ってもらったばかりの聖書を持って、母の前に座りました。「ピリピ書を開きなさい」。そこで、私たち二人は、ピリピ書2章を開き、1節ずつ、交互に、声を出して、聖書を読みはじめました。

 2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
 2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
 2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
 2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
 2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
 2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、
  神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
  人間と同じようになられました。
  人としての姿をもって現れ、
 2:8 自らを低くして、死にまで、
  それも十字架の死にまで従われました。
 2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、
  すべての名にまさる名を与えられました。
 2:10 それは、イエスの名によって、
  天にあるもの、地にあるもの、
  地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
 2:11 すべての舌が
  「イエス・キリストは主です」と告白して、
  父なる神に栄光を帰するためです。

(新改訳聖書2017)

 その聖書の言葉が、私の心をえぐりました。当時、「エゴイズム」という言葉を覚えたばかりで、クラスの誰彼を「エゴイストだ」などと、批判して溜飲を下げていた私でした。ところが、この聖書の言葉は、ほかならぬ、私自身が、エゴイストであり、弟の立場や事情など少しも考えず、愛することすらできない者であることを悟らせてくれました。しかも、そんなエゴイストの私のために、神の御姿を捨て、十字架の死にまでも従われたキリストの愛が迫ってきました。その時、母と弟と三人で、なみだながらに「イエス様ごめんなさい。ありがとうございます。」と祈ったことを忘れることができません。
 私は、このときの、「確かにキリストは、私の罪の身代わりに、十字架の上にいのちを捨ててくださった。」という単純な信仰に従って、今日に至っています。

どうして牧師に?

 「なぜ、牧師になったのか?」という問いも、私にとっては、説明に苦しむ問いの一つなのです。というのは、牧師になりたいと思った理由が、一言で、語り尽くせないからです。
 牧師家庭の長男として育った私が、「牧師の子供だから牧師になる」という周囲の人々の暗黙の期待やプレッシャーを感じて育ったことは否めません。しかし、貧しい生活をして開拓伝道の苦労をしてきた父や母の姿を見て来た私には、とても、「牧師になりたい」とは思えませんでした。高校を卒業する頃には、「牧師には絶対なるまい、就職して、金に不自由しない生活をしたい。」というのが、私の人生設計でした。
 そんな私が、牧師になろうと決意するには、二度の、大きな転機がありまし。
 第一は、大学二年生の時です。そのころ、信仰の壁にぶつかって、信仰を捨てたら、どんなに楽だろうか・・・などと考えていました。また、一方で、聖書に書かれている喜びや平安を自分のものにできたら、どんなにすばらしいだろうかと、求めてもいたのです。そんなときに、私が出会った書物が、私たちの信仰の源流ともいうべき、B. F. バックストンやパゼット・ウィルクスの著作物でした。当時、仙台の肴町にあった「聖書図書刊行会」というキリスト教書店へ行くと、彼らの著書が、出版当時の値段で、売られており、200円とか、300円で買える本は他になかったので、書店にある本を、買い占めるようにして、読みあさりました。そんな読書の中で、私の心に、神が、二つのことをささやいているように感じられました。第一は、悔い改めていない罪があること。第二は、牧師にはなりたくないと、かたくなに、神に明け渡さない自我があること。この二つの故に、喜びも、平安もない生活が続いているのではないか・・・と思われてきました。そこで、ある日、清水の舞台から飛び降りるような覚悟で、自分の心にとがめている罪を一つ一つ神に告白し、また、実際に、その罪の埋め合わせをしました。喧嘩して5年も口を利かなかった友人にわびの手紙を書いたり、嘘をついていたことを謝ったり、借りっぱなしになっていた本や傘を返しに行ったり、当時、できる限りのことをしたように覚えています。また、「牧師になりたくないという」固い決意も、神の手に任せました。そして、「神様の御心なら、牧師になることも否みません。あなたの御心を教えてください・・・」という祈りへと導かれました。すると、私が今まで経験したことのない喜びと満足が心に宿ったのです。寝ても覚めても、キリストが私の心におられ、また、私の傍らにおられるという不思議な確信と喜びに胸が躍りました。この体験が、私の信仰の窮地を救い、牧師になる第一の門を開きました。
 第二は、大学を卒業して、静岡県富士市にある製紙会社に勤務している時のことです。大学在学中は、牧師になるという確信を持てないまま、大学院を受験したり、教員採用試験を受けたり、就職試験を受けたりしました。結局、製紙会社に就職したものの、果たして、これが、神が自分に与えた生涯の仕事であるのか?自分が生涯をささげる仕事はこれでよいのか?と苦しむことになりました。「ここにとどまるべきか?転職すべきか?あるいは、牧師になるべきか?神の導きはいずこに・・・」と苦しい祈りの時が続きました。就職して一年ほどしたある日、私の心に、イザヤ書43章1節の「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」というみことばが、私を牧師として召す神の言葉として、強く迫りました。そこで、牧師として自分の生涯をささげる決心をしたのです。牧師となる決意を固め、一年後、職場を退職して、尊敬する安藤喜市牧師のもと、東北聖書学塾に3年学びました。
 東北聖書学塾を卒業後、福島市の開拓伝道に派遣されて、28年間、福島聖書教会の牧師として奉職後、2012年に、母教会でもある郡山キリスト福音教会の牧師として赴任し、現在に至っています。