木田俊彦

略歴

1923年(大正12年) 忠作・千代の長男として東京都に生まれる
1939年(昭和14年) 父忠作死亡
1943年(昭和18年) 東京物理学校卒、嵯峨根遼吉研究室助手
1944年(昭和19年) 応召(仙台第二師団通信隊)
1945年(昭和20年) 6月、結核療養のため、須賀川療養所へ
1948年(昭和23年) クリスチャンの友人の死を通して入信
1949年(昭和24年) 石山女子高等学校教員
1951年(昭和26年) 会津聖書教会牧師
1953年(昭和28年) 関西聖書神学校入学
1955年(昭和30年) 芳賀慶子と結婚
1955年(昭和30年) 福音伝道教団沼田キリスト教会牧師
1956年(昭和31年) 長男惠嗣誕生
1958年(昭和33年) 次男信嗣誕生
1960年(昭和35年) 郡山キリスト福音教会牧師
1961年(昭和36年) 長女順子誕生
1971年(昭和46年) 菜根三丁目に教会堂移転
1992年(平成 4年) 会堂新築
2011年(平成23年) 多発性骨髄腫と診断される
2017年(平成29年) 12月23日午後1時50分召天

救いの証

 父の死後、机の引き出しの奥に、万年筆の細かい字が記されたわら半紙を発見しました。そこに記されていたのは、国立療養所で、結核の闘病をしていた時代、自分がどのように信仰に導かれたかを書き記した救いの証でした。それが、以下の文章です。

「困苦にあひたりしは我に善きことなり。これによりて我なんぢの律法を学び得たり。」
 すべて神によりて苦難を克服させていただいた人々の心からなる感慨であります。
 私も四年七ヶ月の病院療養所の生活をかへり見る時に、何とも耐え難い思ひをしたその苦しみも無駄ではなかった。否、私には是非必要であったと思はれるのです。私はその病床生活に於いてキリストを知り、さながら炉の中を通された銀の如くに全く新しい人生が与へられたからです。二十年二月、敗戦の色濃い暗澹たる当時の陸軍の病院に入院した時から私の闘病が始まりました。はりつめてゐた気持ちも一度にゆるんだ終戦後、死にゆく多くの友らを見守りつつ、生に死に深い懐疑を持つようになりました。あるいは血を吐きつづけながら、いつ癒ゆるとも知れない、希みなき日々に、迫り来る家族の貧苦に塗炭の悩みを続けながら、何とかして心のよりどころを得たいと切に願ってゐました。(段々長い病気となると、一人まことにさびしい日々です。人に頼らうとすれば薄情がなげかれるし、金に頼らうとすれば不足が嘆かれる。社会がと責めてみても、ますますいらだってくる心をどうすることもできない。目の前に迫ってくる死に対しても平安がない。こんな苦しい生活など早く清算された方がよいと考へながらも、死を恐れる、死が分からない。天井を見つめながら自殺者の心理を考へたり、うとうとと眠りかけたと思ふと脅かされる如く起き上がり、家族の生活を考へる)そんな生活のある日、血を吐いた後の全く空虚な気持ちで一枚の新聞を隅々まで読んでゐる時に、ふと片隅に英文聖書の広告が出てゐるのに気がつきました。哲学に仏教にとよりどころを求めて得られないでゐた私に聖書が読みたい気持ちが起こってきました。声がして一団の子供たちが花束を持って見舞いに来てくれました。キリスト教日曜学校の生徒らが見舞って行ったのです。私の枕元にも一束いけられました。心温まる思いでふと見ると、そこに一片の紙片がついてゐます。「凡て労する者・・・」その花束は、一週ほどでしぼんでしまひましたが、その小さいカードは、私の心を引きつけて、それから二年ほど残ってゐました。それも何時かなくなってしまいましたけれど今ふりかへって見ますと、その聖句は現実な招きとなって私の心の中に現在でも生きてゐるのです。実に、「天地は過ぎゆかん。されど我が言は、過ぎゆくことなし」 けれども、このマタイ11・28の御言葉が私のものとなったのは、まだまだあとのことでした。私の心は目に見えぬものに頼るよりはもっと現実的なものにひかれてゐました。理科系を歩んで来た私が物質界からはなれるのにはまだまだ苦しみが必要でした。
 しかし、兎にも角にも、聖書を読み、註解書を読み、集会にも時折出るようになり、思索の日々が続きました。聖書に書いてあることはよく分かるような気がしましたが、いざ自らの問題となると何の力もありません。平安がない、思煩ひが去らない、新しい悩みがふえるのです。二十二年の春、安藤牧師が療養所をたづねて来られ聖霊に満たされて説教をいたしました。その時、私はいひ知れない感動を覚へ、テキストであった「幸ひなるかな心の貧しき者・・・」の聖句が心の底に深く刻みこまれました。私は心貧しくないと自覚しながらも、なほどうすることも出来ない半年が過ぎました。神は割れない大石を根気よく大槌をふる石工の如く私の心の扉をたたきつづけてゐて下さいました。
 翌年の冬、寒いある日、私の親しくしてゐた坂本といふ友が臨終だといふので呼ばれてゆきました。彼は長男で一家の責任者です。半年ほど前、父が中風で倒れた後、事業のことは彼でなければ分からない。彼が早くよくならないならば、一家の没落は目に見えてゐる。彼はあせりながら真剣に療養してゐました。平安を求めて、私と共に求道してゐましたが、やはりどうしても踏み切れないでゐる間に、段々悪化して行きました。腸も咽頭もやられ、牛乳ものどにしみる。お母さんが弁当箱に水をはって外に出しておいて氷を作っては食べさせる。のどが冷へた後は少し物が通るのでした。そのみじめな苦しみの中に彼は死にたくないと叫びながら母親の首にしがみついたまま死んでいきました。地獄そのものの苦しみでした。私は目のあたり、私の死のモデルを見せられた如く感じて何とも耐へられない思ひでした。私も長男で、その責任感は私をしばりつけて父の早く死んだ家庭を思へば死んでも死に切れぬ悩みに取りつかれるのでした。幼稚な私にとっては、死は、仏教でいふ無明感のためおそろしいものでもなく、死の発作の恐怖でもなく、残されてゆく家族の苦しみを思ふ思ひ煩いであることがこの兄弟の死をとほしていよいよはっきりしてきました。
 二年間ほどつづいたこの悩みが最高潮にあった時、神は最後の証人を私に送りました。二十三年の二月二十九日の早朝四時頃、やはり親しくしていた大橋という兄弟の奥さんが主人が臨終だといふので呼びに来ました。私は又、一瞬何ともいへない打撃でしばらく茫然としてゐましたがやがて立ち上がって兄弟の部屋に行きました。十五六人親戚友人が集まってゐました。彼は衆人環視の中で何といふ平安にみちてゐたことでせうか。永遠を見つめてゐる如き彼の目の輝き、そして何の苦痛もなき如く挨拶をかはし、あとの処遇を皆言ひ残して何時息を引き取るとも知れぬ中に召されてゆきました。兄弟は、やはり不幸な家庭にあり母一人子一人。母は息子を心配してやはり同じ病気になって同じ病院につい最近入院して来てゐます。自分が死ねば、奥さんとこの母だけです。私の理論で行けば、思煩ひのためにその死は最も苦しいものであるはづでした。私は同情しただけで胸が苦しくなる思ひでした。それがこの平安です。彼は半年ほど前にキリスト教の救いを経験してゐました。私は何とも言へぬ厳粛な霊界の事実に圧倒された如くに彼の輝かしい召天を見守ってゐました。
 その日、私の心は打ち砕かれて、さまざまと思いめぐらしてゐました。私の心の中に静かに響いていたのは「幸ひなるかな・・・」の御言葉です。自分に頼って思煩ふ心が砕かれて、「お前は今、病気で何もできない。家族の足手まとひだ。しかも自分さへ生きてゐたら何とかできると考える自分に頼る高ぶる愚か者よ。天の父は空の鳥も野の花も養ひ給ふ。大能の神の御手の中へ飛び込んでいけ」「幸ひなるかな・・・」の御言葉は私の心を砕きました。
 そして固い自己の殻から出て、「凡て労する者、重荷を負ふ者我に来たれ」と招き給ふキリストの手の中へと飛び込んでいきました。ベッドの上で、一人祈って感激してゐた私に平安がやってきました。なほりたいなほりたいとあせってゐた私は、これで私の人生はよかったといふいひ知れぬ平安に満たされてゐました。ところが反対に病の方は段々と癒されてきました。
 その年の暮れ、年はとってゐてもなほ家庭の中心であった祖父が死にました。忙しい葬式の三日ほどが過ぎてまた一人療養所に帰る途中、夕闇の迫る会津若松の駅頭で、冷たい風に吹かれてゐた時です。急に孤独感が迫ってきました。一家の中心が私にいよいよやって来た。しかし、何時癒ゆるとも知れない自分だ。一家は今どん底の生活だ。希望の眼を輝かせる年頃の弟らはいずれも暗い顔をしてゐる。何の希望もない。夕闇とともに迫る寂しさでした。その時、私の心にささやかれたのは、「主イエスを信ぜよ。さらば汝も汝の家族も救はれん」の御言葉でした。さうだ、今何の希望もない我が家族だ。キリストによって、クリスチャンホームとして全く新しい出発をさせていただかう。それは見ゆるところによらない不思議な希望、暗黒の中に差し込んで来た一筋の光でした。私は顔をかたくして祈りこんでゐました。しかし、この約束はやがて後二年ほどして現実に成就されたのです。次の年の正月ごろから七月ごろにかけて、神からいひ知れぬ重荷を与へられて母のために日夜祈って、もう私の力が尽きて、神様どうにでもよい様にしてくださいと祈りこんで行った時、苦しみの底から母が教会に導かれて、キリストの救いにあづかりました。ついで一人の弟。その年の暮れには、私がいやされて退所、就職。次の年には天幕で二人の弟が救はれたのです。はじめて家族がそろって讃美歌を歌ひ祈りをささげた時の感激は今でも忘れることができません。「見よ。我らは忍ぶ者を幸福なりと思ふ。なんぢらヨブの忍耐をきけり。主の彼に成し給ひし果を見たり。即ち主は慈悲ふかく、かつ憐憫あるものなり。」
 私は今病いやされて直接伝道へと召命を受けてゐます。けれども肉体の癒し等の目に見ゆる幸ひはまた限りあるもので、何時か父なる神にかへさなければならないものです。けれども主イエスにさずかったこの生命のつながりは永遠です。私は永遠に神の栄光を望んで喜んで行けるのです。

木田俊彦説教;「御霊の自由」

 父が説教したテープを、KSさんがYouTubeにアップしてくださったので、それをご紹介します。1988年(昭和63年)のペンテコステ記念礼拝のメッセージですので、父が65歳の時の録音です。Ⅱコリント3:13~18

「御霊の自由」コリント人への手紙第二3章13~18節・説教者;木田俊彦