新型コロナウイルス感染症の拡大によって、礼拝堂に、集まることが出来ない間、とりあえず、第二礼拝の説教原稿と、YouTube 動画をアップします。動画のアップは、使徒信条講解が終わるまで継続したいと思います。なお、動画の部分は、6月末には削除する予定です。
宗教改革と使徒信条(使徒信条講解20)
マルコ7:1〜13
◆使徒信条の講解の20回目は、全体のまとめとして、「宗教改革と使徒信条」というテーマでお話をしましょう。今日の聖書箇所、マルコの福音書7:1~13節の要点は、9節です。「またイエスは言われた。『あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。』」これは、イエス様が、形骸化し、形式主義に陥っていたパリサイ人や律法学者の宗教を批判した言葉ですが、それはまた、宗教改革において、プロテスタント教会が、カトリック教会に突きつけた言葉でもありました。しかし、プロテスタント教会は、カトリック教会のすべての伝統を否定したわけではありません。使徒信条は、教会に伝えられてきた伝統に属するもので、カトリック教会においては、洗礼式の際に用いられる信仰告白文でした。その伝統は、プロテスタント教会では、洗礼式の式文としてではなく、教理教育の「教材」として有用であるという認識で、ルターもカルヴァンも一致していました。使徒信条の講解が一段落したところで、その、使徒信条の歴史に触れておくことは、大切であると思います。
◆使徒信条の歴史;使徒信条の成立については、十二使徒が1項目ずつ告白して出来上がったという伝説が伝えられて来ました。ルフィヌスは次のように記しています。
「ペテロが『私は全能の父、天地の造り主なる神を信ずる』と言った。アンデレは『父の御子であり、唯一の主なるイエス・キリストを信ずる』と言った。ヤコブは『主は聖霊によって身ごもり、処女マリヤより産まれた』と言った。ヨハネは『ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架にかけられ、葬られた』と言った。トマスは『陰府に下り三日目に死から甦り』と言った。ヤコブは『天に昇られ全能の父なる神の右に座し給う』と言った。ピリポは『かしこより来たりて生ける者と死する者とを正しく裁き給う』と言った。バルトロマイは『私は聖霊を信ずる』と言った。マタイは『聖なる公同の教会、聖徒の交わり』と言った。マッテヤは『永遠の生命』と言った」。
現在では、この使徒信条の由来伝説は疑問視されており、使徒たちがこの信条の作者ではないとされています。しかし、「使徒」の名前が冠せられているのは、十二使徒が作ったからではなく、十二使徒の教えを簡潔にまとめたものであるから使徒信条と呼ばれているのです。①使徒信条の起源は古ローマ信条(紀元140年ころまで遡る)であると言われています。それは、「われは全能の父なる神を信ず。また、そのひとり子、イエス・キリスト、われらの主を。彼は、聖霊と処女マリヤから生まれ、彼はポンテオ・ピラトのもとで、十字架につけられ、葬られ、3日目に死せる者よりよみがえり、天に昇り、父の右に座し、かしこより来たりて、生ける者と死せる者をさばかん。また、聖霊を、聖なる教会を、罪の赦しを、肉のよみがえりを。」というもので、使徒信条とよく似ています。もともとローマ教会の洗礼式の際に用いられた、洗礼式の式文から発展したものだと言われています。当時、洗礼式に際して、受洗者は、「あなたは全能の父なる神を信じますか。」「あなたは、そのひとり子イエス・キリストを信じますか。」「あなたは聖霊なる神、聖なる教会、罪の赦しを信じますか。」と問われ、「私は・・・信じます」と三度答えるごとに水をくぐって洗礼を受けたと伝えられています。②使徒信条は、異端や異教との戦いによって整えられてきました。グノーシス主義の霊肉二元論の異端に対抗するため、また、異教徒から回心したクリスチャンたちに、使徒たちが伝えた信仰を分かりやすく教えるために生まれて来ました。③使徒信条は、教会の伝統に属するものです。聖書のことばそのものではありませんが、聖書の伝える福音を簡潔に表現したものとして、カトリック教会、プロテスタント教会、共に信じる信条です。東方教会は、この信条を教会が公の会議で認めた「信条」としては認めませんが、その内容に反対しているわけではありません。
◆ルターとカルヴァンの評価;①ルターによる評価。ルターは、その大教理問答の中で、「使徒信条は我々が神から期待し、受け取らねばならない一切のものを示し」「神を徹底的に知ることを教えてくれる」ものであると語っています。また、小教理問答の中では、十戒に次いで教えられ、「創造について」、「救いについて」、「聖化について」と使徒信条を三つに分けて教えています。②カルヴァンの評価;カルヴァンは、キリスト教綱要の中で、使徒信条は、「神の純粋なみ言葉からとられたもの以外は何一つ含まぬ信仰内容の完璧な要点が、十分にまたすべての部分にわたって我々に確立している事を心に留めなければならない。」と語ります。カルヴァンの信仰の流れを汲む、ハイデルベルク信仰問答は、救いを得る「まことの信仰」の内容として、十戒よりも前に、この使徒信条が配置されています。
◆使徒信条の信仰;使徒信条が今日、私たちに語る要点は、①キリスト教の核心はキリストです。使徒信条の大部分は、イエス・キリスト様の人格とそのご生涯に関する告白です。キリスト教は、教えや道徳ではなく、私たちがこのキリスト様とどのような関係にあるかが大切です。②キリストの贖いの歴史的事実を語る。イエス様の十字架と復活が、歴史的事実であることを強調しています。私たちの信仰は、歴史的事実に根差す信仰です。③信じることの重要性。「我は信ず」と繰り返されます。私たちは、疑い迷いやすい存在ですが、そんな私たちに近づき出会ってくださる神様がいる、「信じさせてくださる神様がいる」、それが、使徒信条が私たちに教える神様のお姿です。
永遠のいのち(使徒信条講解19)
ヨハネの福音書3:16
◆これまでお話をしてきた使徒信条講解も、今回が最終回です。今日取り上げるのは、「永遠のいのちを信ず」という一節です。「永遠のいのち」という言葉は、私たちにいろいろなイメージをもたらします。娘たちが幼かった日、ある時、「お父さん、永遠のいのちってどういうこと?」と質問され、とても説明に困ったことがありました。「ずっと、神様と天国にいることだよ。」「天国で何をするの?」「天国で、神様を礼拝するのさ」「えーっ!」もう少し、上手な説明ができれば良かったと思うのですが、その時の娘は、小さな子どもには、お話も、讃美歌も難しく、退屈な礼拝が永遠に続くかと思って、ゾッとしたらしいのです。イエス様と、天国の食卓を囲んで、美味しいものを食べたり、歌ったりするのだとでも、話しておけば、食いしん坊の娘は、ワクワクしたのではないか・・・と今になって思います。
◆永遠のいのちとは;①根源的な欲求。私たちがイメージする永遠のいのちは、人によって様々です。しかし、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者3:11)」とあるように、洋の東西を問わず、人の心には、永遠に憧れる思いがあります。ヒンズー教や、ギリシャ哲学、仏教や、日本の古来からの考え方の中にも、「永遠」という概念が登場します。また、「医学も、その最終的に目指すところは、永遠のいのちだ」という人がいます。私たちの心には、永遠のいのちに対する根源的な欲求があるとということができるのではないでしょうか。②聖書が語る永遠のいのち。イエス様は、最後の晩餐の後、「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)と語られました。永遠のいのちは、ただ、永遠に生き続けるという事ではありません。私たち人間は、有限ですし、形のあるものは、皆、壊れていきます。しかし、そんな私たちであっても、永遠の存在者であり、この天地宇宙の創造主であられる神に結びついて初めて、永遠を手にすることができます。永遠とは、たったお一人、神だけが持っておられる属性だからです。イエス様は、「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」と語られました。永遠の命は、私たちが、難行苦行の果てに掴み取るものだったり、不思議な霊界の体験をして初めて手にするものではありません。神様があなたを愛しておられ、その愛の故に、ひとり子イエス様をあなたの身代わりに十字架の上に犠牲にするほどあなたを大切に思っておられることを知り、この神様との関係を回復することが、永遠のいのちを手にすることなのです。③永遠のいのちを生きる。ハイデルベルク信仰問答は問58で、
『「永遠のいのち」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。』と問い、「私が今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです」
と答えます。そこで語られていることは、永遠のいのちは、私たちが死んで初めて与えられるものではなく、そのいのちは、すでに、イエス様を信じた私たちのうちに始まっているということです。永遠の命は、死後のことではなく、今、私たちが生きている、今、それを経験し、永遠のいのちを生き始めているのです。パウロは、
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ6:4,5)」
と、この新しいいのちの始まりを、私たちが、使徒信条で告白される信仰を受け入れ、信じてバプテスマを受けることと結びつけて語ります。永遠のいのちの始まりは、今日、ここから始まるのです。
◆罪の赦し;最後に、この使徒信条の順序に注目をして、お話を締めくくりたのです。死と心情は、三つに区分されます。「父なる神について」「子なる神について」「聖霊なる神について」の三区分です。その3番目は、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。」と続くのです。「罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず」と、まず、罪の赦しの後に、身体のよみがえり、とこしえのいのちと続くことを心に刻みましょう。永遠の命は、罪の赦しなくして手にすることはできません。キリスト様の十字架の死と復活は、私たちの罪を赦し、私たちと神との間の隔てを取り除くためでした。人は、誰でも、死に直面して逡巡します。フジテレビのニュースキャスターで、55歳で食道癌のために天に召された山川千秋さんも、そうでした。声がかすれるということで、病院を受診し、食道癌であることがわかりました。奥様がクリスチャンだったところから、病床で、キリスト教に触れました。がんの告知を受けた山川さんは、訪ねてきた宣教師に、「平安な心で死ぬには、どうしたら良いでしょうか。」と率直に聞かれたそうです。宣教師は、子供のような心になり、キリストが、私の罪の身代わりに十字架で死に、三日目に甦られたことを信じ、自分の罪を正直に神の前に告白し、罪の赦しを願うことだと話しました。山川さんは、東大の法学部を卒業し、留学までしたエリートでしたが、本当に、幼子のようになって、宣教師の前に自分の生涯の罪を告白し、祈ったそうです。その後の、彼の輝くような姿は、奥様が、彼の死後出版された『死は終わりではない』という本の中に、詳しく書き記されています。私たちも、今日、この信仰をしっかりと握り締め、永遠のいのちを生きるものでありたいと思います。
身体のよみがえり(使徒信条講解18)
Iコリント15:35〜44
◆よみがえり、復活などと聞くと、現代人の心には途端にシャッターが下りてしまうかもしれません。しかし、ヨブという人は、こんなことを言っています。
「木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し その若枝は絶えることがない。たとえ、その根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、水の潤いがあると芽を吹き出し、苗木のように枝を出す。しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか。(ヨブ記14:7~10)」
隣の家と、教会の駐車場の境界に、枝垂れ桜の木が植わっています。枝を下ろして、丸太のようになりましたが、また芽を出し、花を咲かせ、青々と葉を茂らせています。ヨブは、災害で子どもたちを失い、財産を失い、自分の健康も害して、死を考えました。「木には望みがある。・・しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。」という彼の言葉は、私たちの心にも響きます。新型コロナウイルス感染症で色々な方がなくなりました。知らない人の死は、他人事です。しかし、親しい人、多くの人に愛されてきた人が亡くなると他人事が、他人事ではなくなり、自分の事に変わります。志村けんさんが亡くなった時には、日本中が悲しみました。多くの人が、新型コロナウイルス感染症で自分も死ぬかもしれないと、ハッとした出来事でした。死に直面しました時、私たちは、「あの人には、もう会えないのか。」「死んだらどうなるのか。」と、言うことのできない悲しみに襲われます。ところが、教会では、使徒信条の中で、「からだのよみがえりを信ず」と告白するのです。一体、これは、どういうことでしょうか。
◆キリストに結びつけられた人生;ハイデルベルク信仰問答は、その問1で、
「生きるにも死ぬにも、あなたの唯一つの慰めは何ですか。」と問い、「私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」
と告白します。からだのよみがえりは、私たちがイエス・キリストと結ばれて、ひとつであるからこそ、「からだのよみがえり」という希望を持つことができます。パウロは、私たちとキリストとの関係を「接ぎ木」に例えました。渋柿も、甘柿の枝を接木すると甘い実をならせます。私たちとキリスト様との関係は、柿の接ぎ木とは立場が逆転しますが、野生のオリーブで、ろくな実をならせない私たちでも、キリスト様に接ぎ木され、キリストの命が私たちの生涯に流れ込んできますなら、新しい人生が始まります。キリストさまの復活の命が、私たちのうちに働きますなら、私たちも、キリスト様の復活と同じようにしていただける、それが、私たちの復活の希望です。この希望は、ただひとえに、キリスト様の十字架と復活の事実に基づいた希望なのです。
数年前に、岐阜の川村江弥先生が、聖会でお話をしてくださいましたが、ご自分ががんで闘病している間に、今度は、奥様が多発性骨髄腫で入院することになり、約一年ほどで、死にそうであった先生よりも先に、天に召されました。その葬儀の日、眠ったままの姿である奥様の棺を火葬にするとき、本当に気が狂いそうになるほどつらかったとお話になりました。しかし、その火葬場で、
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(Ⅰコリント15:51~52)」
というみことばに、ハッと我に返り、支えられたとお話をされました。キリスト様に結ばれた人は、必ず、再臨の日、おわりのラッパが鳴り響く日に、キリストの栄光のからだに変えていただくことができるのです。
◆からだのよみがえり;ここには、「身体(からだ)」とあえて記されています。肉体は死ぬけれども、私たちの霊は永遠に生きるのだとは、記されていないのです。「霊魂不滅」と言う概念は、聖書の概念ではなく、ギリシャ哲学、特にプラトンの影響や、後に霊肉の二元論を展開したグノーシス主義の考え方で、初代教会の時代、教会は、このグノーシス主義と戦いました。プラトンは、肉体は、霊を閉じ込める牢獄のようなもので、死は、霊を肉体と言う牢獄から解放すると考えました。また、グノーシス主義は、世界を二分化し、物質と霊の世界で成り立っていると考えます。基本的に、霊は善で、肉体や物質は悪と考えます。そこからの救いを求めます時に、純粋に霊的なことだけを志し、物質や肉体の悪と戦い、禁欲や難行苦行をこの身体に課して、霊が肉体から解放される死をもって自由を得ようというのです。こんな風にお話をしますと、こんがらかってくる人もいるかもしれません。聖書は、肉体も霊も神様が創造されたよいものとしてきました。神は、私たちを土のちりから創造し、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。また、イエス様も、肉体を取って、この地上のお生まれ下さいました。もちろん、私たちの身体は、やがて朽ちます。しかし、その身体に聖霊が宿り、聖霊の宮としてくださっています。やがて、その聖霊の力によって、私たちの朽ちて行く身体も、生かしてくださるのです。
「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。(ローマ8:11)」
身体のよみがえりを信じる信仰は、グノーシス的霊肉二元論を克服する信仰なのです。
◆パウロは、Ⅰコリント15:42~44で、
15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
と語ります。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。私たちは、このことを心に留めたいと思います。この地上での歩み、すなわち、私たちが肉体において蒔いたものをやがて永遠の世界で朽ちないものとして受け取る時が来るのです。身体のよみがえりを信じるなら、霊も身体も大切にしなければなりません。
罪の赦しを信ず(使徒信条講解17)
エペソ1:1〜7
◆今日は、使徒信条の「罪の赦し」という一節から、お話をしたいと思います。まず、最初に、この「罪の赦し」が、聖霊を信ずという聖霊についての告白の中で、聖なる公同の教会、聖徒の交わりに続いている点に注目しましょう。聖霊の第一のお働きは、私たちに、罪赦された確信を与えるということです。そして、罪の赦しは、公同の教会、聖徒の交わりの土台でもあります。私たちは、罪赦されて、公同の教会の一員とされ、罪赦された者として、聖徒の交わりに加えられたのです。ここで、ハイデルベルク信仰問答の「罪の赦し」の部分を引用してみたいと思います。
問56「『罪の赦し』について、あなたは何を信じていますか。」
答「神が、キリストの償いのゆえに、私のすべての罪と、さらに私が生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず、それどころか、恵みにより、キリストの義を私に与えて、私がもはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです 。」
そこに三つの罪の赦しの側面が記されています。①過去;すべての罪。私たちの過去の罪は、決して拭い去ることができません。三浦綾子さんは、「道ありき」の中に、こんなことを書いておられます。「わたしは、人間はそう簡単に過去の自分と縁を切ることのできない存在だと、つくづく思った。たとえ自分では一切の過去を断ち切ったと思うことはできても、自分が生きてなしてきたすべての行動は、決して消すことのできないもののように、改めて私は感じた。」しかし、その私たちの過去のすべての罪を、イエス様は、赦してくださるのです。②現在;私が生涯戦わなければならない罪深い性質。過去の罪はすべて赦していただいたとして、今、私たちはどうでしょうか。その心の内側には、私たちが生涯戦わなければならない罪深い性質がなお、残っているのではないでしょうか。しかし、イエス様は、おまえには、まだ、罪深い性質が残っていて、まだまだだから、だめだとはおっしゃらないのです。まだまだである私の罪深い性質をも、もはや覚えようとはされないというのです。③未来;決してさばきに会うことのないようにしてくださる。そればかりか、私たちは、その罪深い性質のために、小さな敗北をこれからもし続けていくどうにもならない者であるにもかかわらず、恵みによって、キリストの義を私に与えて、私たちが神の前に立った時、私がそこにいるのではなく、キリストの義を来た私が、否、キリストご自身が神の前に立っているかのように私を見てくださるというのです。それは、すべて、イエス様が、私の罪の身代わりに、十字架の上で、神の刑罰を受けてくださり、三日目によみがえってくださったからなのです。
◆罪を赦す;第二にお話をしたいことは、私たちが、その友や隣人の罪を赦すということです。イエス様が罪の赦しについて語る時には、いつも、私たちの罪が神様に赦されることと、私たちが友人や隣人の罪を赦すことが、表裏一体のように語られました。私たちの罪が赦されることも大変なことですが、私たちが、他人の罪を赦すということも、実は、とても難しいことなのです。マックス・ルケードが書いた「グリップ・オブ・グレース」という本の中に、赦すということの難しさを教えるケビン・タネルという青年の話が出てきます。ケビンは、17歳の時、飲酒運転で、18歳の女性をはねて殺してしまいました。裁判の中で、彼女の両親は、彼に百五十万ドルの賠償請求をしたが、彼には、その金額を支払う能力がないため、賠償額はたったの九百三十五ドル。その代わり、ケビンは毎週金曜日に一ドルずつ、交通事故で、彼女が死んだ金曜日に家族に小切手を18年間送り続ける条件で、和解した。ところが、たった一ドルを送るだけなのに、ケビンはすぐ忘れてしまい、今まで、四度も彼女の両親に訴えられて裁判所に呼び出されている。そこで、ケビンは、彼女の両親に、19年分の金額をまとめて送金したが、受け取ってもらえない。彼女の両親が要求しているのは、お金ではなく、彼が毎週金曜日に1ドルを送るという贖罪行為なのです。私たちがケビンの立場だったら、どう思うでしょう。あるいは交通事故で娘を失った両親の立場だったらどう思うでしょう。隣人の過ちを赦すということの土台は、まず、私たちが、自分自身のどうにもならない罪を神様に赦していただくという経験が不可欠です。私たちの人生には、怒り、憎しみ、悲しみ、絶望が渦巻き、とても赦すことができない事件に遭遇したり、人がいたりするものです。しかし、「赦せ」とは、主イエス様の命令です。私たちはそのご命令の前に、とても赦すことのできない、自分自身の心、心に生じる葛藤を経験し、「主よ。私にはとても赦せません。どうか、イエス様の十字架の恵みによって、私の心の隅々まできよめ、支配してくださり、赦すことができるように、助けてください。」という祈りをささげる以外に、方法がないのです。しかし、そのことを、イエス様は私たちの心に、聖霊によってなしてくださると信じて、「我は聖霊を信ず、・・罪の赦しを信ず」と告白するのです。
聖徒の交わり(使徒信条講解16)
Ⅰヨハネ1:1~4
◆今日は、使徒信条の「聖徒の交わり」ということばについて、お話をしたいと思います。まず、最初に、この「聖徒の交わり」と、私たちプロテスタントの教会では唱えてまいりましたが、カトリックの教会では、かつて、「諸聖人の通功」と訳していました。現在は、プロテスタント教会と同じように、『聖徒の交わり』と訳しているのですが、かつては、違った訳し方をしていたのです。そこには、カトリック教会独特の神学がありました。簡単に説明しますと、カトリックでは、教会に属する人々を三つに分類します。(1)この地上にある戦う教会。罪に対し、欲に対し、悪に対して戦う教会です。(2)煉獄の苦しむ教会。神によって天国に入る資格があると裁かれた「聖人」たちで、天国に入る前に煉獄で魂をきよめる必要があり、煉獄で苦しんでいます。(3)天にいる凱旋(勝利)の教会です。この三つの教会の聖徒たちの間にある交わりを「通功」と呼ぶのです。もうすこし砕いて言うと、すでに天にある聖人たちの功徳、功績、すなわち、聖母の功徳や、聖人たちの功徳、そして、イエス様の功徳が、この三つの教会の間に流通して、苦しみの教会も、戦う教会も、その交わり、功徳の流通によって利益を受けるという考え方です。そこから、聖母マリア崇拝や、諸聖人への祈りという習慣が生まれました。
一方、プロテスタント教会では、私たちが救われるのは、そのような教会の中で流通する聖人たちの功徳によって救われるのではなく、ただキリストの十字架を信じる信仰によるのであると考えます。そこで、「諸聖人の通功」ではなく、『聖徒の交わり』と訳してきたのです。
◆聖徒の交わり;では、プロテスタント教会では、この聖徒の交わりをどのように理解してきたのでしょうか。①三位一体の神との交わり。ヨハネの手紙は、私たちクリスチャンの交わりの前提として、三位一体の神の交わりを教えます。3節に、「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」とありますが、私たちが、三位一体の神の交わりの中に招かれていることが示されています。ヨハネは、福音書の中でも、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(17:21)と語っています。さらに、パウロは、「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)と語り、私たちのうちに、神の御霊が住んでおられると語っています。三位一体の永遠の神ご自身の愛の交わりの中に、私たちクリスチャンも招かれているという事は、何という光栄でしょうか。ですから、私たちクリスチャンが集まって祈るとき、「そこに、わたしもいる」(マタイ18:19~20)と約束されているのです。私たちが、聖書を読んで祈るとき、温かい、神の慰めがあふれたり、兄弟姉妹が人数は少なくとも、集まって祈るときに、不思議に心が燃えるのは、この神の交わりに私たちが招かれているからなのです。②教会の交わり。第二に、私たちクリスチャンは、イエス様を信じた時、それぞれ、生ける石として、教会の一員として組み込まれましたから、教会の交わりの中で生きています。新型コロナウイルス感染症の拡大のため、一堂に会して礼拝をすることができなくなっておりますが、そこで体験したことは、私たちが、いかに、教会の交わりによって支えられ、生かされて来たかという事実です。教会は、愛餐会を尊びます。それは、そこに、教会の大切な命があるからです。また、東日本大震災の時、教団教派を超えた教会の交わりがありました。聖徒の交わり、それは、非常に大きな、グローバルな教会間の交わりに広がります。③聖餐の交わり。聖餐式は、私たちが、キリスト様とひとつにされ、また、同じ主を信じる兄弟姉妹が一つとされる大切な『聖徒の交わり』です。宗教改革が起きたとき、スイスの宗教改革者ツウィングリと言う人は、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」(ヨハネ6:63)というみことばを盾に、聖餐式のパンとぶどう酒という物質には、何の益もない。ただ、キリストの十字架を記念するだけだと主張しました。しかし、ルターや、ウェスレーは、聖餐式は、単なる記念ではなく、そこで分かち合われるパンやぶどう酒と共に、キリスト様の十字架の恵み、魂のきよめなどの、霊的祝福が分かち合われるのだと信じていました。確かに、聖餐式には、記念の式という以上の、聖徒の交わりが存在するのではないかと、私も考えております。
聖なる公同の教会(使徒信条講解15)
マタイ16:15~18
◆使徒信条の「聖なる公同の教会」という一節から、教会についてお話をしましょう。多くの方は、教会と言うと、尖塔の先に十字架が掲げられた建物を連想します。ヨーロッパの各地には、美しい立派な教会堂が建てられています。しかし、聖書の中で、「教会」と訳されたギリシャ語は、建物ではなく、神の救いを経験した信仰者の群れを指しています。最初に読んでいただいた聖書の箇所は、このみ言葉をもとに、ペテロの権威を継承していると主張するカトリック教会と、イエス様は、ペテロの上に教会を建てると言っているのではなく、その信仰告白の上に教会を建てると仰っているのだと主張するプロテスタント教会の間に、論争が繰り広げられて来たた箇所でもあります。確かに、ペテロは、教会の柱であり、イエス様の12人の弟子の筆頭でもありましたが、そのペテロと同じ信仰を告白する人々に、イエス様は天国の鍵を託してくださったという事でしょう。それは、実に厳粛な使命が、教会に託されているという事でもあります。
◆「聖なる教会」;教会が聖であるという事は、神様によって選ばれ、区別されているということを意味しています。「聖」という言葉は、一般の用途ではなく、神のために用いるため、区別され、選ばれたものを指す言葉だからです。私たちが聖なる公同の教会を信じるという事は、①教会の主権者は神であることを信じるという事。一人一人をこの世から召し出し、イエス・キリスト様に結び付けてくださった、教会の主である神を信じるという事です。教会がこの世の集まりと、決定的に違うことは、この点にあります。単なる同好の志が集まったというのではないのです。あるいは、自然に日本に生まれた、木田家に生まれたというの事でもないのです。教会のメンバーは、神様が召された一人一人であるという事です。②教会の使命は宣教にあるということを信じることです。教会は何のためにこの世から召し出されたのでしょうか。キリスト様が私たちの罪の身代わりに十字架で死んで、三日目によみがえってくださり、今も、教会のただ中に臨在してくださっていることを証しするために召しだされたのです。この使命を忘れては、教会ではありえません。教会が聖であるという事は、③教会の歩む道筋を表しています。コリント人への手紙第一を開きますと、手紙の冒頭で、パウロは、コリントの教会に対して、「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人々とともに、キリスト・イエスにあって聖なるものとされ、聖徒として召された方々へ。(Ⅰコリント1:2)」と呼び掛けています。パウロが、コリント教会に手紙を書いた理由は、素晴らしい教会だったからではなく、むしろ、様々な問題が山積みで、分裂分派はある、礼拝の混乱はある、異邦人の中にも見られないような不品行がある教会だったからです。けれども、パウロは、「神の教会」「聖なるものとされ、聖徒として召された方々」と彼らに呼び掛けるのです。教会に集められ、召された人々は、模範的だから、優れているから、欠けがないから選ばれたのではありません。問題があり、悩みがあり、困難の中に苦しんではいるけれども、そんな私たちを愛して、神様は、ひとり子イエス様を世に遣わし、十字架の死と復活によって、私たちを罪の奴隷から、サタンの思うがままの生き方から贖いだしてくださり、キリストに似た者と変えてくださろうと、選んでくださったのです。罪から救われ、キリストに似た者とされていく道筋、プロセスが「聖」という言葉で表されているのです。ある方が、教会は、「ただいま工事中」というプラカードをぶら下げて歩いている人の群れだと言いましたが、その通りだと思います。
◆公同の教会;「公同」という耳慣れない言葉が使われていますが、もともとは、カトリックCatholicということばで、「普遍的・一般的」という意味です。聖書の中に、「公同の教会」という言葉はありません。しかし、教会の歴史の中では、紀元110年にローマで殉教したアンテオケのイグナティオスという教父が、その手紙の中に使ったのが最も古いと言われています。当時、教会は、エルサレムからスタートし、小アジアから、ギリシャ、ローマへと広がり、それぞれの地域に牧師が立てられ、互いに交流を保ちながら、独自の教会形成がなされていました。そのような時代に、すべての教会をつなぐ組織はありませんでしたが、キリストを頭とするキリストのからだの一部分であるという意識がそれぞれの地域教会にはあり、それを「公同の教会」という言葉で表現しました。その「公同の教会」という言葉が、使徒信条の中にも入っているのです。公同の教会を信じるという事は、どういう事でしょうか。①第一に、キリスト信仰は一つという事です。。キリスト教会に様々の教派や教団はありますが、その信じる信仰の内容は、驚くべきことに、ひとつです。その一つの例証がこの使徒信条です。使徒信条を受け入れる教会は、カトリック、聖公会、プロテスタントと、西方教会の流れを汲む教会すべてがこの信条を受け入れています。また、東方教会は、教会会議で認められた信条としてこの使徒信条を認めてはいませんが、反対しているわけではなく、東西教会が共通に告白するニケヤ・コンスタンチノープル信条の内容は、使徒信条をもうすこし詳述したものなのです。②第二に、公同の教会を信じるという事は、私たちをカルト的信仰から守るということです。多くのカルトと呼ばれる宗教は、自分たちだけが真理を持っており、他はみな偽物であると独善的です。しかし、使徒信条の中で、「聖なる公同の教会を信ず」と告白する教会は、自分たち以外にも、天地創造の全能の神を信じ、十字架で死に三日目に復活された主イエス・キリストを信じ、聖霊なる神を信じている教会が、過去にも存在したし、現在も、世界中に存在することを認めるからです。また、このことは、私たちが、東日本大震災において改めて経験した大きな慰めでもありました。③超教派の交わりの大切さを教える。公同の教会を信じるのであれば、教団、教派が異なり、それぞれの教会文化は違っていても、エペソ4:5に「主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」と互いに信じて、交わり、協力し合って生きて行くことを表明している事でもあるのです。自分自身の所属する教会を愛することは、もちろんですが、他教派の教会をも尊重し、協力しながら、ともにイエス・キリスト様を証していくことが、公同の教会を信じるという事でもあるのです。
◆イエス様を信じた時、代々の聖徒たち、世界中のクリスチャンたちと、同じキリストのからだの一員とされたという事のすばらしさを改めて確認しましょう。
【ニカイヤ信条】
わたしたちは、唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主を信じます。
わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。主は、わたしたち人間のため、またわたしたちの救いのために、天より降り、聖霊によって、おとめマリアより肉体を取って、人となり、わたしたちのためにポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って、三日目によみがえり、天に昇られました。そして天の父の右に座し、生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られます。その御国は終わることがありません。
わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、預言者を通して語ってこられました。
わたしたちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます。わたしたちは、罪のゆるしのための唯一の洗礼を、信じ告白します。わたしたちは、死人のよみがえりと来るべき世の命を待ち望みます。 アーメン
我は聖霊を信ずー2(使徒信条講解14)
ヨハネ16:4〜11
「我は聖霊を信ず(2)」使徒信条講解14
ヨハネ16:4〜11
◆使徒信条;我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我は、その独(ひと)り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠のいのちを信ず。
◆使徒信条の「我は聖霊を信ず」という一節から、聖霊なる神について、二回目のお話をしたいと思います。前回は、聖霊に関する誤解をただし、まことの信仰を、私たちの心に適用してくださる聖霊の隠れた働きについてお話をしました。今回は、聖霊の隠れた働きを、私たちのものとして捉える私たちの側の問題について、お話をしたいと思います。NHKで、「チコちゃんに叱られる」という番組をしております。5歳だけど、なんでも知っているチコちゃんが、毎回、度肝を抜くような質問を、ゲストや視聴者に投げかけます。その答えが間違っていると、「ボーッと生きてんじゃねえよ!」という決め台詞とともに、あっと驚くような答えが披露されます。聖霊なる神様は、隠れたところで働いておられると申しました。私たちの生涯を振り返ってみます時に、聖霊なる神様は、その豊かな愛と恵みを持って、あらゆるところで、私たちに語り、ささやき、導きの手を伸べていて下さっているのではないでしょうか。そのようなことを理解し、その聖霊なる神様のささやき、御声に応答するものでありたいと願うのです。
◆聖霊なる神は罪を示す;「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」とイエス様は語られました。聖霊なる神は、まず、私たちに、罪を明らかにされます。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」とイエス様は、解説されました。イエス様の御生涯を、福音書を通して見て参りますと、イエス様の語る力ある説教を聞き、力あるわざを見、それでも、人々は、特に、ユダヤ教の指導者たちは、イエス様を信じようとしませんでした。神のことばを聞く耳を持たない、神のわざを見る目が閉じられている、それが、彼らの問題でした。けれども、それは、彼らだけのことではありません。私たちも、同様に、神に向かって、耳も目も閉じていて、神様の言葉は響いてはいても、聞くことが出来ず、神様のみわざを見てはいても気がつかない。私たち自身には、神の救いを自分のものとして掴み取る能力が決定的に欠如していると言わざるを得ません。ルターは、その小教理問答者の中で、使徒信条の最後の部分、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠のいのちを信ず。」を解説して、「私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみもとに来ることも出来ないが、聖霊が福音によって私を飯、その賜物を持って照らし、正しい信仰においてきよめ、保ってくださったことを」と述べています。聖霊なる神様は、私たちの最も奥深くにある不信仰という罪を示し、くらまされた目を開いて、私たちのために十字架にかかって罪を赦し、三日目に復活され、今も生きておられるイエス様を示し、信じさせて下さるのです。ウエスレーも聖霊によって目が開かれた時、彼の閉ざされていた心が開き、自分自身が、救いようもない罪人であることを悟り、イエス様の十字架をそのまま信じ受け入れることこそが、自分の罪を解決する唯一の手段であることを悟り、罪の赦しの確信を得ました。
◆聖霊なる神は正しい判断の基準を示す;ヨハネの福音書において「義」という言葉が何を意味するかを理解することは、なかなか難しいことなのです。というのは、この「義」という言葉が、この8節、10節にしか出てこないからです。しかし、おおよそ、このようなことだと理解することが出来ます。ユダヤ人は、彼らの判断基準で、イエス様には、罪(神を冒瀆する罪)があると判断しました。ペテロは、ペンテコステの日、集まってきたユダヤ人たちに、次のように語っています(使徒の働き2:23、24、32、36)。
23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。 24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
彼らの判断基準では、イエス様は、十字架に死刑にすべき罪人でしたが、神は、そのイエス様を死者の中からよみがえらせ、彼らの判断基準が間違っており、イエス様は、罪のない、義なるお方であることを公にお示しになったのです。パウロもこのことを、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方(ローマ1:4)」と語っています。ペテロが、このように語った時、多くのユダヤ人が心刺され、悔改めてイエス様を信じました。ユダヤ人の「義」、彼らの判断基準は、現在も変わりません。多くのユダヤ人が、イエス様は、十字架で処刑された罪人であるとして、キリスト教には、目も向けません。しかし、聖霊なる神は、彼らの義の誤っていることを教えてくださいます。同様に、誤った判断基準を持ち、キリスト教など、邪教で信じる価値もないと考えている多くの人がいるのです。そのような人々に、その誤りを教えてくださり、眼から鱗のように、義なるイエス様を教えて下さるのです。ルターも、聖霊によって目が開かれ、「義」という聖書の言葉を、忌み嫌っていた彼の判断基準がどんなにおかしいものであるのか、教えていただき、そこから、宗教改革が始まりました。
◆聖霊なる神は自由を与えて下さる; 「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」というみことばも、「義」についてと同じ線で理解することが出来ます。ユダヤ人は、誤った判断基準に基づいて、イエス様に有罪の判決を下し、十字架につけました。その誤った判断は、この世を支配するサタンに支配されているところからきます。サタンは、聖書の中では、「空中の権威を持つ支配者(エペソ2:2)」と呼ばれています。私たちは、意識するとしないとにかかわらず、この世の流れの支配者、空中の権威を持つサタンの影響のもとにあります。サタンは、流行によって、あるいは、私たちの判断基準を誤らせることによって、とんでもない罪の生活の中に奴隷のように、沈ませます。しかし、イエス様は、その十字架の死によって、このサタンを滅ぼし、私たちを、自由にしてくださったのです。ヘブル書2:14、15に「14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、 15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」と書いてある通りです。
◆私たちのなすべきこと; 神様は、この聖霊なる神を、教会に遣わし、また、私たち一人ひとりの心にもお与えくださいます。その聖霊なる神様が、私たちに与えられるために、イエス様は、十字架にかかり、死んで三日目によみがえってくださいました。神様の側では、全ての備えが完了しているのです。じゃあ、私たちは、何をすれば良いのでしょうか。①素直な心で、神様の語りかけ、聖霊のささやきに耳を傾けることです。②悔い改めることです。ペンテコステの日に、ペテロがユダヤ人たちに語ったメッセージをもう一度、心に留めましょう。ペテロは、心を刺されたユダヤ人たちに、「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と語りました。③明け渡すことです。私たちには、それぞれに、自分自身の判断基準があります。しかし、それが、本当に正しいと、誰が主張できるでしょうか。大切なことは、自分自身の判断基準に固執するのではなく、神様の判断基準を受け入れ、神様に喜んで従うという姿勢ではないでしょうか。神様は、そのような人に、聖霊の導き、祝福の何たるかを教えてくださいます。
我は聖霊を信ずー1(使徒信条講解13)
ヨハネの福音書7:37〜39
◆今日は、使徒信条の「我は聖霊を信ず」という一節から、聖霊についてお話をしたいと思います。父なる神は、天地の創造主であり、絶対的な権能を持ったお方として、イメージできますし、子なる神は、人としてこの地上を歩まれ、私たちの罪を負って十字架上に死に、三日目によみがえられた方としてリアルにイメージができます。しかし、三位一体の神の第三位格、聖霊なる神は、イメージしにくいとか、よく分からないと仰る方々が多いのです。父なる神、子なる神が、私たちを外側から救うお働きをするのに対して、聖霊の神は、私たちを内側から救い、私たちと共に働かれるお方であるため、隠れていて見えないという特徴があるためだと思われます。しかし、この隠れて見えないお働きをされる聖霊なる神を信じ、そのお方と共に生きてこそ、福音の素晴らしい現実を体験することができるのです。
◆聖霊に関する誤解;まず、最初に、聖霊に関する誤解をいくつか挙げ、私たちが、ただしい態度で聖霊なる神の御支配の中に入っていけるように、お話をしたい。①聖霊は単なる力やエネルギーではない。聖霊を非人格的な力やエネルギーと考えている人々は案外多いと思われます。聖書の中に、シモンという魔術師が登場します(使徒8:9)。ピリポがサマリヤ人に伝道し、多くのサマリヤ人が神のことばを受け入れ、サマリヤにリバイバルが起きたました。ニュースを聞いて、エルサレムからペテロとヨハネとがやって来ました。シモンは、二人が手を置いて祈ると、信じた者たちが聖霊を与えられるのを見て、自分も、この力が欲しいと、金を持ってきてその力を買おうとしました。彼は、聖霊を金で売買できる「手品の種」のようなものと考えたのです。しかし、ペテロは、「おまえは、このことに何の関係もないし、あずかることもできない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。」と叱責し、悔い改めを迫りました。聖霊は、神ご自身ですから、このお方を金で買える手品の種のように扱うことは、恐ろしい罪です。②単なる様態の変化ではない。よく、三位一体を説明するのに、太陽のようなものだとと言われてきました。太陽は、空中に光り輝く天体ですが、その太陽は、私たちには、光として、熱として体験されます。また、水も、気体、固体、液体として存在します。一見、なるほどと思いますが、正確に言うとこのような説明の仕方は、アタナシオス信条によって退けられた「サベリウス主義(様態論)」という異端の考え方なのです。サベリウスは、神は、旧約時代には、父なる神として現れ、新約の時代には人類を救う御子として現れ、キリスト昇天後の教会時代には聖霊として現れたと説明しました。とても分かりやすいのですが、旧約の時代にも、新約の時代にも、また、教会時代にも、神は父と子と聖霊の三位一体の神として存在しておられるのであって、その現われや様態が変わったのではないのです。理解することが難しくても、聖霊なる神を、三位一体の第三位格の神としてあがめることが大切です。③私たちをスーパーマンのようにする霊ではない。聖霊に満たされるというと、何か、奇跡をおこなったり、未来を予言したり、聖書を超える真理を啓示したりする能力が与えられるような錯覚を持ちやすいのですが、決してそうではありません。聖霊は、聖書のみことばを開き、イエス様を理解させ、私たちを神の栄光を現わす器として整えます。
◆聖霊の働き;使徒信条は、これまで、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず・・・」と天地創造の全能の神、そして、神が私たちの救いのために遣わされた救い主イエス・キリストを信じると告白してきましたが、その神ご自身の救いの御業を私たち自身のものとして確信させ、体験させるのが聖霊なる神の働きです。イエス様は、仮庵の祭りの終わりの大いなる日に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と招かれました。仮庵の祭りの終わりに、祭司たちは、シロアムの池から水を汲み祭壇の周りを七度回って水を灌ぐ儀式をしました。その旧約時代の儀式は、イエス様を通して実現するのだ、というメッセージが込められています。その最後に、ヨハネの「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。」とヨハネの解説が記されています。聖霊なる神様こそが、私たちが救われなければならない罪人であることを悟らせ、私たちの罪の身代わりに十字架の上に命を捨て、三日目によみがえられたイエス・キリスト様を信じ受け入れる信仰をお与えくださって、その御言葉の約束通りに、心の奥底から生ける水の川が流れ出るように、してくださるのです。ハイデルベルク信仰問答は、私たちをキリストに結び付ける「まことの信仰」とは、使徒信条に告白されている信仰であると教えます。しかし、使徒信条に告白されているまことの信仰を、「私の信仰」としてくださるのは、聖霊なる神のお働きです。以前に、ウェスレーのお話をしました。彼は、牧師家庭に育ち、オックスフォード大学で神学を学び、聖く生きるために、ホーリークラブというサークルを大学内に設立し、毎週、聖餐式にあずかり、刑務所訪問、貧しい人々の救済、断食の祈りと、規則正しく自分を律して懸命に努力をしました。さらに、きよめられることを求めて、アメリカのジョージア州に、宣教師としてインディアン伝道を志して渡ります。ところが、そこで、彼は、インディアン伝道どころではなく、様々な挫折を経験し、自分の罪深さを味わい、「私が地の果てに言って学んだことは、自分は神の栄光を受けるにはふさわしくない者で・・・罪の中で最も小さいものさえ、自分で贖うことができず、神の義なるさばきの前で私は、とうてい立ちおおせることができない。」と日記に書きました。彼のプライドを砕き、自分の罪深い性質に気づかせてくださったのは聖霊です。そして、その聖霊は、それから三か月後、イギリスに帰って来たウェスレーをキリストの十字架の恵みに導きます。その日、「ひどく気が進まなかった」けれども、彼は、アルダスゲート街の小さな家庭集会に出席しました。そこで、ある人が、ルターの「ローマ人への手紙」の序文を朗読するのを聞きました。その朗読を聴くうちに、ウェスレーは、救われるためにただキリストにのみ信頼したと確信し、ふしぎな温かさを心に感じました。そして、神様が、この私の罪さえ、取り去って救ってくださったと確信したのです。気の進まぬウェスレーをアルダスゲートの家庭集会に導かれたのは聖霊です。彼の心に、十字架を信じる信仰を与え、罪の赦しを確信させたのも聖霊です。
◆「我は聖霊を信ず」;私たちがこのように告白するのは、聖霊が、私たちにも、ウェスレーや、ルターや代々の聖徒たちと同じように、二千年前の十字架と復活という歴史の出来事をとおして、私たちにも、その恵み、その救い、その豊かな祝福を私たちの心に注いでくださることを知っているからです。今日、私たちもこの聖霊なる神を心から信じあがめたいと思います。
再臨のキリスト(使徒信条講解12)
ローマ人への手紙8:18〜25
◆今日は、使徒信条の「かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審き給わん。」という一節を手掛かりに、「キリストの再臨」というテーマについてお話をしたいのです。使徒信条の時制に注目すると、イエス・キリスト様について告白する、「主は聖霊によりて宿り・・・」から、「天に昇り」までが過去時制、「全能の父なる神の右に座したまえり」は、唯一、現在時制、「かしこより来りて・・」からは、未来時制で記されています。その三つの時制は、また、私たちとイエスさまとの関係においても真実です。イエス様は、私たちの過去の罪を赦し、現在は、私たちのためにとりなし、助けを与えてくださり、未来においては、ただしい審判をなさって、私たちの希望となってくださるのです。さて、今日は、イエス様の再臨についてお話をする前に、私たちの現実を少し顧みてみましょう。
◆今の時の苦難;パウロは、ローマ人への手紙8章で、被造物全体のうめきを書き記します。私たち人間ばかりか、被造物のすべてが、うめき、生みの苦しみをしていると。「苦難」という言葉は、複数で記されていますので、新改訳聖書の前の版では、「今の時のいろいろの苦しみ」と訳されていました。折笠好さんという私のお習字の先生は、詩篇90:10を暗唱しておられ「われらが年をふるななそじに過ぎず、あるいは健やかにしてやそじに至らん。されどその誇るところは、ただ勤労と悲しみとのみ」と聖書に書いてあるけど、本当にその通りだと、よく語っておられました。若い時に満州にわたり、満州鉄道の駅長をしておられましたが、日本が戦争に負けて、すべてのものを失い、命からがら、国に帰ってきました。やっと就職したものの、職場に泥棒が入り、その責任を取るような形で、やめざるを得ませんでした。そんなご自分の人生と聖書のことばを重ねて、「されどその誇るところは、ただ勤労と悲しみとのみ」と語られた姿が、今でも脳裏に焼き付いています。私たちの人生には、様々な苦しみがやって来ます。今から9年程前、東日本大震災が起きました。千年に一度の災害などと言われましたが、その後、北海道で、熊本で地震があり、また、昨年は台風19号水害が私たちの地域にも大きな爪痕を残しました。やれやれと思いましたら、今度は、新型コロナウイルスの騒ぎで、世界中が混乱しています。人間ばかりか、先日のニュースでは、動物園のトラが新型コロナウイルスに感染したというのです。神様が天地を創造されました時、それは「非常に良かった」と記されています。確かに、いまでも、自然界の美しさは息をのむような輝きに満ちています。けれども、その自然もうめいている。そのうめきの原因は、私たち人間の罪だというのが、聖書の指摘です。先の東日本大震災で、私たちの福島は、原発事故に見舞われるという思いがけない経験をしました。考えてみますと、人間の思い上がり、弱者を踏み台にした富の追及が、地震や津波の災害に、もう一つの災害を加え、今なお、汚染された美しい福島の自然も、私たちと共にうめいているのではないでしょうか。この世界のうめきの大元は、私たちが罪を犯し、その私たちの罪を神様が非常に悲しみ傷んでおられるところからスタートしているのです。
◆希望;もし、そうであるならば、イエス様が十字架によってその人間の罪を贖い、解決してくださるのなら、うめいている世界にも希望があります。やがて、もう一度イエス様がこの地上に来られる日、被造物のうめきも、私たちのうめきも、ことごとく拭い去られます。天も地も、私たちも、滅びの束縛から自由にされ、神の栄光にあずかる日が来るのです。①再臨の日、それは、この世界の終末です。終わりがあるから、大切に生きることが出来ます。②再臨の日、それは、審判の日です。審判があるということは、私たちの希望です。「水戸黄門」という長寿番組がありました。その秘訣は、最後に黄門様の痛快なさばきが行われ、大団円を迎えるところにありました。この世界にも、最後の審判の時が定められています。③再臨の日、それは、完成の日です。クリスチャンにとっては、キリストの栄光の姿に化せられる喜びの日なのです。
◆再臨を待つ心得;①目を覚ましていなさい。イエス様は、再臨について語る時、いつも、「目を覚ましていなさい」と語られました(マタイ24:42「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたはしらないのですから。」、マルコ13:33「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」)。私たちは、いつ、イエス様が来ても良いように備えをしなければなりません。目を覚ましているという事は、②惑わされない(Ⅱペテロ3:3~4「3:3 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、3:4 こう言います。『彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。』」)ということです。私たちは、惑わされやすく、「まだ大丈夫、再臨なんて、荒唐無稽の作り話」などと、考えやすいのです。③神を畏れて敬虔に生きなければならない(Ⅱペテロ3:11「このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。」)ということです。今回の新型コロナウイルス感染症の流行は、世界中の人々を震え上がらせました。それは、治療法がよくわからない、特効薬もワクチンもないという事だけではありません。自分たちが当たり前と思い、絶対に揺るがないと思っていた人生の土台が一瞬にして消えてしまうことがあると気付いたからではないでしょうか。営業自粛、株の暴落、失業、私たちがより頼んできたものが、いかにもろいか、思い知らされたのです。それであれば尚更、私たちは、神の前に誠実に、また、隣人には愛を行う敬虔な生き方を貫きたいものです。
キリストの昇天(使徒信条講解11)
使徒の働き1:9〜11
◆使徒信条;我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我は、その独(ひと)り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠のいのちを信ず。
◆本日は、使徒信条の「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。」という一節を手掛かりに、イエス様の昇天についてお話をしましょう。ルカが書き記す昇天の記事は、実にリアルで、ぽかんと口を開けたまま、イエス様を見上げている弟子たちの姿が目に浮かぶようです。この、キリスト昇天の出来事の重要性を教えるために、ハイデルベルク信仰問答は、不信仰とも思える二つの問いを投げかけます。問47「それでは、キリストは、約束なさったとおり、世の終わりまで私たちと共におられる(マタイ28:20)、というわけではないのですか」問48「しかし、人間性が神性のある所どこにでもある、というわけではないのならば、キリストの二つの性質は互いに分離しているのではありませんか。」AD451年に出されたカルケドン信条は、神であり人であるイエス様を、「一にして同一者なるキリスト、御子、主、独り子なる御方は、二つの本性において、混合なく、変化なく、分割なく、分離なく、知られたもうなり。」と告白します。しかし、イエス様が昇天され、現在、私たちが復活されたイエス様をこの目で見ることができないということは、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。(マタイ28:20)」という約束は、反故になってしまったのではないか。また、イエス様が人間としての性質においては、この地上にはおられず、その神性、神としての御性質においては、片時も私たちから離れてはいないというなら、イエス様の神としての性質と、人としての性質とは分離しているのではないかと、屁理屈を並べてみて、このイエス様の昇天と言う出来事が私たちとどのような関係があるのかを語ろうとしています。
◆昇天の意味;①弁護者キリスト。第一に、イエス様が天に昇られたということは、この方が、天の父の面前で、その裂かれた肉体、突きさされた釘の痕をもって、父なる神の面前で、私たちのためにとりなし、弁護していてくださるということです。ローマ8:34に、「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の罪につき、しかも、私たちのために、とりなしていてくださるのです。」と記されています。よみがえったイエス様が、天の父の右に座しておられるということが、どれほど大きな恵みであるかが分かります。②私たちの肉体も天にある。第二のことは、エペソ2:6に、「神はまた、キリストイエスにあって、私たちを共によみがえらせ、共に天上に座らせてくださいました。」とあるように、私たちの頭であるイエス様が天において神の右の座についておられるということは、キリストの体の一部分である私たち自身が、イエス様と共に神の右の座にすでに座らせられ、やがて、私たちもイエス様が天に昇られたのと同様に、神の右の座にまで引き上げていただけるという保証なのです。なんという、栄光でしょうか。③聖霊の祝福。第三番目は、聖霊の祝福です。ヨハネ16:7,8に、「16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」と記されています。ヨハネは、14章から16章にかけて、何度も、イエス様が父のもとに行かれると、助けぬし、真理の御霊が遣わされるとのイエス様の約束を書き記します。イエス様が昇天されるということと、聖霊の祝福が注がれるということとは、表裏一体なのです。