来て、見なさい

ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て見なさい。」

ヨハネの福音書1:45,46

 「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」とは、メシヤ、すなわちキリストの事です。ユダヤ人は長い間、キリストと呼ばれる救い主が来られることを心待ちにしていましたが、いざ、「その方に会った。」しかも、「ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と聞くと、途端に、疑いが生じます。ナザレは、ガリラヤ地方の名もなき寒村だからです。まさか、そんな田舎からキリストが出るはずがないというのが、ナタナエルの感想でした。ところが、ピリポは、「来て見なさい。」と殺し文句を語ります。私は、この「来て見なさい。」と言うピリポの言葉が好きです。
 エルサレムを旅行した時、ヴィア・ドロローサを案内されました。アラブ人のバザールが並ぶ細い路地をガイドさんを先頭に迷子にならないように歩きました。ピラトの官邸跡からスタートし、聖墳墓教会までの1㎞弱の道のりを、14のステーション(留)ごとに立ち止りながら解説を聞きました。
 解説を聞きますと、14のステーションのうち、聖書に裏付けがあるのは、8つほどで、その他は、教会の伝承や伝説に基づくものでした。それを聞いた時の私は、途端に心が閉ざされ、聞くに値しないお話として退けていました。今、考えると、とても、もったいないことをしたと思うのです。それは、来住英俊というカトリックの神父さんが書いた「目からウロコ 十字架の道行き」という本を読み、その深みを教えられたからです。そこには、イエス様が最初に倒れられた第三ステーションでの黙想に、こんなことが記されていました。「主イエス・キリスト、地面にお倒れになった時、あなたは何をご覧になったでしょうか。エルサレムの石畳、石ころや砂、その間からけなげに頭を出している小さな草が、目のすぐ前に迫って見えたのではないでしょうか。私も倒れた時には、今まで高みから見下ろしていた小さなものを、目のすぐ前に見ることでしょう。そして、今まで知らなかった美しさを知ることでしょう。」と、倒れたイエス様と、倒れた自分とを比較し、重ね合わせて黙想する姿に、あの時、自分も石畳に顔を擦り付けて、イエス様のお姿を黙想しておけばよかったと、今更の後悔をしたのです。
 「来て見なさい。」とのピリポのことば、私たちも、日ごとの信仰の実践の中で、心に留めたい一言です。

 下の写真は、額取山(別名:安積山)に登った時、足元に咲いていたショウジョウバカマ、イチリンソウ、カタクリです。

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